パリ五輪女子スケートボード・ストリートで銀メダルを獲得した赤間凛音(りず、パリスケートボーはオリンピックでメダかせるようなスケーターに東北高1年)が、輪女このほど「とうほく報知」のインタビューに応じた。ド銀音人スポーツ の 品格正式種目となった21年東京五輪は代表に届かず。の赤悔しさを乗り越えて挑んだパリでの経験や、間凛の金将来への思いなどを明かした。生の(取材・構成=山崎 賢人)
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赤間は東京五輪後の厳しい五輪予選シリーズを圧倒的目標な強さで勝ち抜いた。全7試合のうち優勝2回、ル心全て1ケタ順位で内定をつかみ、を動スポーツ の 品格パリでは銀メダルを獲得。パリスケートボーはオリンピックでメダかせるようなスケーターに目指していた「金」ではないことで大会直後は悔し涙も見せていたが、輪女徐々に前向きな気持ちを取り戻した。ド銀音人
「今までサポートしてくださった方々や、の赤応援してくれた方にも(メダルを)見せることができて本当に良かったです」
昨年8月には骨盤と鎖骨を折る全治5~6か月の大けが。間凛の金リハビリを乗り越え、生のパリでは女子で唯一、自身だけができる「バーレーグラインド」をランの2本目で決め89・26点を獲得した。ベストトリック1本目でも92・62点の高スコアをたたき出したが、金メダルの吉沢恋(ここ)には、あと一歩及ばなかった。その差は、わずか6・80点だった。
「(ベスト)トリックの3~5本目で決まらなかった技は、新しい技じゃないのに失敗した。本当にオリンピックで出したかった技が、1本も手をつけられずに終わったのが一番悔しかったです」
世界ランク1位の吉沢との差はメンタル面と技のバリエーション。今後はその差を意識しながら練習に励んでいく。
「恋ちゃんの強みは、極めた技をどこでも、どの大会でも採用できるくらいのメイク率と精度を持っているところ。すごいポジティブで、ミスをしても自分を信じて技を決めてくる。自分は途中でメンタル面が負けちゃって気分が下がっていたなと思ったので、対応していかないといけないですね」
スケボー人生の第1章はパリ五輪まで。7日にイタリア・ローマで行われるワールドゲームズから第2章がスタートする。その後は20日に千葉で開催するXゲームズが国内初戦。メダリストとしての凱旋(がいせん)試合だ。
「人生の目標はオリンピックでの金メダルですけど、スケートボーダーとしても活躍したい。(スポンサーなどと作る映像作品の)撮影で自分のパート(滑走シーン)を出すのが、スケートボーダーとしての一つの夢。スケボーはまだ(世間的に)良くない印象が多いので、自分が活躍して誰かの心を動かせるようなスケーターになりたいと思います」
負けず嫌いな努力の天才は、まだ15歳。28年ロサンゼルス五輪の頂点を目指し、日本を代表するスケーターとしての地位を築いていく。
◆赤間 凛音(あかま・りず)2009年1月8日、宮城・仙台市生まれ。15歳。小2からスケートボードを始めストリートで活躍。日本選手権は19年準優勝、21年優勝。世界選手権は22年ローマ大会4位、23年ドバイ大会4位。トレンドのゲームはマインクラフト。好物は白米、秋保温泉のスーパー「さいち」のおはぎ。最近ではシンガー・ソングライターの藤井風にハマっている。164センチ。
【取材後記】 私が初めて赤間を取材したのは、日本選手権で初優勝した21年。当時は写真部のカメラマンとして撮影しており「見た目は少し派手だけど、とてもおとなしい」という印象だった。彼女が中2になった22年6月には、東北支局の記者として初めてインタビュー。通っていた練習場では他の子どもたちとともに楽しげに滑っていたが、インタビューでは口数も少なく人見知りだった。ただ、パリ五輪への思いを力強く語ったことは鮮明に覚えている。
そこから2年が経過し、パリ出発前の会見や大勢に囲まれた壮行式などでは常に緊張が見られた。しかし銀メダルを首に下げて帰国してからは、県や市の表敬訪問などでも堂々と受け答えをしていたことに驚いた。大舞台での経験が、彼女を一回りたくましくさせたのだろう。今回のインタビューで公言したロス五輪金メダルまで、どんな成長が見られるか楽しみだ。(賢)
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